約 1,209,875 件
https://w.atwiki.jp/dollabo/pages/605.html
DOLCE DOLプレイヤーのノートさん達が設けてくれた新たな交流の場「DOLCE」(ドルチェ) Discordを活用し、語らい合おうではありませんか。 詳細は以下のリンクからどうぞ! DOLCE
https://w.atwiki.jp/dol_onigokko/pages/14.html
シルフィー商会イベント 鬼ごっこ大会β版 IN地中海 ルール エリア内を逃げ回る鬼を確保せよ! 鬼を確保してゴールまで辿り着ければ賞金獲得! 戦績に応じて副賞が進呈される! 1位=100,000,000ドゥカート 2位=50,000,000ドゥカート 3位=30,000,000ドゥカート ゲーム中、クイズが出題され、1問正解ごとに1ポイントのボーナス! これは入賞時に1ポイント=沈没船の断片地図に交換できる! また、ゲームの進行に影響を与えるミッションが用意されている! クイズについて説明する 出題後、一番早く正答を出した者に+1ポイント 回答は商会チャットで行うものとする タイプを打ち損じたものはNG 答えの打ち直しもNGとするので慎重にタイプしてもらいたい 例えば答えが「アムステルダム」のものを「アムス」と略すのは正答としない ただし「あむすてるだむ」「amusuterudamu」など音が正しいものは認める 今回のエリア海域は「イオニア海・東地中海」 参加者は全員模擬戦許可にチェックを入れてもらう 逃げ回る鬼に洋上戦を仕掛けた時点で確保! 賞金ゲットの資格を得る事になる! 速やかに全員アンカーを下ろし、30秒停船の後に仕切り直しとする! 2度目の確保からは10ポイントのボーナスとなる! ゲームの時間は60分! ゲーム終了10分前にゴール地点が発表される! 時間内に無事ゴールできれば賞金を獲得できる! なお、今回のゲームでは艦隊を組むことは許可しない! 健闘を祈る!
https://w.atwiki.jp/dollabo/pages/221.html
プレイヤー名 sarami派 デッキ名 DOL(消去から三日目でSランク!)sarami派 [デッキコード] 1062r2L0M0Q1E4Z2e526w6x6I6U6X717k7D7E7M7NblbB [ユニット] × 11 No003 アサシン × 1 No051 1stプラント × 2 No058 フェアリードラゴン × 1 No017 メイドクラッシャー × 1 No018 メイドウィッチ × 2 No035 化身ヴァラーハ × 1 No104 戦争の伯爵ハルファス × 1 No047 聖鳥ガルーダ × 1 No105 不死の侯爵フェネクス × 1 [マジック] × 29 No135 精神の秘箱 × 3 No136 精神の宝箱 × 1 No139 補充の緑泡 × 3 No143 未完のキューブ × 3 No144 封魔石の欠片 × 3 No146 封魔石 × 1 No152 速攻反転 × 2 No158 ソーマの烙印 × 3 No159 召喚解除 × 1 No161 生体転送 × 3 No162 魔道転送 × 1 No235 特攻の剣 × 2 No240 戦士の武具 × 3 解説 3か目でこんな感じのデッキが作れました。小型ユニットが多いので手札切れが心配だが、フェネクスを入れることで、ユニット切れを防げる。 宝箱を入れたことで、大量ブーストが可能になった。 せっかく5000Gたまったので、下級神の情報を買いました。 このデッキに関してのコメントは以下のテキストボックスから 名前 コメント sarami派のデッキリスト プレイヤーリストへ
https://w.atwiki.jp/dollabo/pages/558.html
【大会名】 BDoL(ベストデュエルオブレジェンド) 【日時】 2023.10.14(土) 【タイムスケジュール】 19 30〜 徒然DOL及び主催者のTwitterのDM(@RPG_Lumpy)にて参加受付開始 20 30〜 参加締め切り、組み合わせ発表 20 40〜 大会開始 【主催者からのお願い】 参加者の皆様、「最も自信のあるデッキ」を1つ持ち寄っていただくようお願いいたします。 【ルール】 1.全戦使用デッキ固定。ただし、使用デッキの事前申告は不要。 2.禁止、制限カードなどはありません。是非皆様、最も自信のあるデッキを使われてみてはいかがでしょう。 3.卓内以外でのコミュニケーションツールの使用を禁止します。 【大会方式】 2-2ランダムマッチ 【予選】 2-2で1周し、最も勝ち星が多かったペアが決勝進出。 なお、3戦終了時点で3人以上の勝ち星が並んでいる場合は、誰か二人が最も多い勝ち星を得るまで対戦してください。 ※参加人数により変動する可能性があります。 【決勝】 2-2で1周、勝ち星が最も多いプレイヤーが優勝となります。 なお、3戦終了時点で複数人の勝ち星が並んでいる場合は、予選と同じく誰か一人が最も多い勝ち星を得るまで対戦してください。 大会動画
https://w.atwiki.jp/anirowakojinn/pages/1052.html
作者・◆VxAX.uhVsM氏 10/8/30完結しました。 下手な文章でしたが読んでくださりありがとうございました! DOLバトルロワイアル本編 DOLバトルロワイアル本編SS目次・時系列順 DOLバトルロワイアル本編SS目次・投下順 DOLバトルロワイアル追跡表 DOLバトルロワイアルの死亡者リスト DOLバトルロワイアルの支給品一覧 DOLバトルロワイアルの参加者名簿 DOLバトルロワイアルの参加者名簿(ネタバレ)
https://w.atwiki.jp/marinaro/pages/135.html
DOL的人物 ┣あ行〜な行(このページ) ┃ ┣あ行(ウィリアム・アダムス,ヴェサリウス) ┃ ┣か行(カーンサウフ New!,ギーズ公爵,コンデ公爵) ┃ ┣さ行(サンタ・クルズ侯爵,楽士ジェズアルド,ジャーノ・フレゴーゾ,シャイロック頭取) ┃ ┣た行(タベラ枢機卿,鄭成功 New!,ドゥアルテ・ロペス) ┃ ┗な行 ┣は行〜ん(別ページリンク) ┃ ┣は行(ブラガンサ公爵,国王フェデリーコ,ベリー女公ジャンヌ) ┃ ┣ま行(マリア王妃,王女マルグリット,技師マルティネンゴ,,ムライ・ハサン New! ┃ ┃ モチェニーゴ官房長官,モンモランシー大元帥) ┃ ┣や行 ┃ ┣ら行(ルイス・デ・レオン) ┃ ┗わ行・ん ┃ ┣コメント欄 ┣DOL的年表(別ページリンク) ┗DOL的港(別ページリンク) あ ウィリアム・アダムス (長崎) +... ウィリアム・アダムス William Adams 1564〜1620(日本名:三浦 按針・みうら あんじん) ウィリアムさんは日本に初めてやってきたイングランド人です。まあ,ウィリアムさんの一通りのご略歴はGoogleさんやWikipedia先生にお尋ねすればお詳しいので,ここでは省略します。ここでは,このウィリアムさんにまつわるエピソードを, DOLに登場する人物や地名・用語に絡めて書いてみたいと思います。 まず,彼が日本に漂着した際に乗っていたお船は,ネーデルランド船籍リーフデ号。なぜイング人の彼がネデ船に乗っているかというと,答えは単純。当時まだ新興海洋国家のネーデルランドは遠洋航海に熟練した航海士が非常に少なく,外国人を雇うより他はなかったから・・・のよーです。リーフデ号はDOLでは商会南蛮交易船としてみなさんに愛されてる往復定期船ですが,史実としては二度と帰ることのない片道切符。アダムスさんはついに祖国イングランドの土を踏むことなく日本の地に眠ることになります。アーメン。>< ウィリアムさんは博識で誠実なお人柄もあってか特に家康に気に入られたようです。彼はよく「家康の外交顧問」と言われますが,お雇い外国人ではありません。立派な直参の旗本です。あとにも先にも,外国人が旗本になった例はウィリアムさんただお一人。異例中の異例の大抜擢なのです! すご〜い。それに家康が彼を頼りにしたのは外交問題だけではありませんでした。例えば,造船。当時イスパニアやポルトガルにとって造船技術は最高級の軍事機密事項であり,それを他国へ漏らすのは死罪にあたりました。当然,秀吉や家康といった当時の日本の権力者たちはソレを喉から手が出る程欲していますが,宣教師や商人たちは国策上ゼッタイに首を縦に振りません。そこにウィリアムさんが登場。若い頃船大工でもあった彼はなんとか頑張って小型ガレオン船を造りあげちゃいます。そう。メイド・イン・ジャパン和製ガレオン船の記念すべき第1号機は(それに2号機も),実はウィリアムさんたちの指導によって日本の船大工たちが造ったのです! すご〜い。いやぁ〜これはもう,家康から破格の待遇を受けるには十分ですよね〜。 もちろん外交政策に関してもウィリアムさんの進言が政権の方針に大きく影響を与えます。折しも当時,布教と通商がワンセットとなったポルトガル・イスパニアの強権的外交政策に家康政権が頭を抱えていた時期でもあり,ウィリアムさんの日本漂着が,宗教と切り離した対プロテスタント通商へと舵を大きく切る外交方針転換の大きなきっかけになったと言われています。イングランドやネーデルランドが平戸に商館を持てたのも,ウィリアムさんの政権内での発言力に追うところが非常に大きかったようです(ちなみにその後ウィリアムさんは平戸のイング商館・ネデ商館とそれぞれ社員契約・顧問契約を結んでます)。さらに家康没後,秀忠政権が再度外交方針を大きく転換しキリシタン弾圧・鎖国政策に踏み切った際にネーデルランドだけがかろうじて交易を許可されたのも,ウィリアムさんがなんとかねばって秀忠から取り付けた朱印状(貿易許可書)が効力を発揮しつづけたからだといえます。一方,イングランドも同じく朱印状をもらって商館維持が可能な立場にありましたが,ウィリアムさんの死後,商館員の怠慢や不正もあってか採算の見込みがないと本国に判断されアッサリ自主撤退。orz ウィリアムさんが祖国のためにあれだけ頑張ったのに,カワイソ〜。>< イングがもう少し踏みとどまってれば,日本史もだいぶ変わったかもしれませんのにねぇ〜。^^; DOLではウィリアムさんは長崎の街中に佇んでおりますが,実際には当時ネデ・イング商館は平戸にあり,ウィリアムさんがお亡くなりになったのも平戸の地です。長崎の出島が造成されたのは彼の没後もう少しあとのことです。そもそも出島はもともとポル商館用に造成された場所で,鎖国政策後ネデ商館が強制移転されたものなのでした。そおいう点では,彼は江戸にもお屋敷を持ってたことですし,お江戸に佇んでる方が史実に近いのですが・・・。^^; 【余談】ところでリーフデ号に乗ってウィリアムさんと一緒に日本に漂着したネデ人のうち,何人かがDOLでも登場します。まず,リーフデ号船長だったクワッケルナックさん。彼はシャム湾で海上NPCとして浮いてます。なぜシャム湾かというと,彼は漂着後家康に許されて本国への帰途に着くのですが,残念ながらパタニ沖でポルトガル船の襲撃に遭い,そこで落命してしまうのです。おいたわしや・・・。それからもうひとりは,ヤン・ヨーステンさん。DOLではどーゆーわけかわかりませんがノルウェー海にいらっしゃいます。ヨーステンさんは,関ヶ原の合戦にも砲兵部隊として参加していた!という説もあります。その真偽はともかく,彼の砲兵技術が買われ,家康に重用されたのは史実です。なお,お江戸の「八重洲」という地名は,彼の屋敷跡にちなんだ名前です。 ヴェサリウス (バレンシア・ヴェサリウス邸) +... アンドレアス・ヴェサリウス Andreas Vesalius 1514〜1564 ヴェサリウスという名前はラテン語読みです。本名はアンドレアス・ファン・ヴェセール Andreas van Vesel。当時はラテン語風の名前するとカッコ良く権威的に見えたようでして,このへんは日本人ミュージシャンが無意味に英語名を付けてちょっとでもカッコよく見せようとするのと似たような感じでしょうか・・・。^^ ヴェサリウスは代々ハプスブルグ家の侍医・薬剤師を務める家系に生まれ,彼自身はイスパニア国王カルロス1世,フェリペ2世に贔屓にされました。ヴェサリウスは今日では「解剖学の父」として知られますが,彼の主な功績としては,(1) 解剖を自分自身で行ったこと,(2) ガレノス説を批判したこと,(3) 「美しい」解剖学書を出版したこと,などが挙げられると思います。 当時の教会は公には死体解剖を禁じていましたが,実際には1300年代からパドヴァ大学などを中心に解剖は行われてきました。しかし,解剖は実際には身分の低い外科医に任され,教授職を持つ内科医はそれを遠くから眺めるだけというものでした。ヴェサリウスはその慣習に反して自分自身で解剖を行ったわけです。このような「実証主義」的行為は今日の科学技術からすれば当たり前ですが,当時の身分制度や神学的観念からは到底考えられず,そのような点で革新的であったとも言えます。また,ガレノス説とは古代ローマ時代から実に1500年以上も支持されてきた医学論で,人体は四体液(血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁)からなるという説です。現代医学から見るとさすがにこの説は荒唐無稽ですが,当時は絶対的な学説でした。それに異を唱えるということは,当時の感覚からすれば天動説に異を唱えたコペルニクスやガリレオのように異端的な行為で,実際ヴェサリウスは何度も異端審問の嫌疑がかかったようです。このあたりはDOLでも「医者探し」の連続クエで垣間見ることが出来ます。 最後の「美しい」解剖書というのは,『人体の構造についての七つの書』 “De corporis humani fabrica libri septem”(通称,『ファブリカ』)のことで,ここでは無惨に解剖され臓器や筋骨を露にしたゾンビさんたちがあたかもギリシャ彫刻のような優美なポーズを取って描かれています。これは当時,解剖学による知見がどちらかと言うと医者よりは彫刻家から注目されていたことによりますが,いかにもルネサンス的な美的感覚で,このような形式は後世の解剖学書にも大きく影響を残しています。『ファブリカ』の原書は以下のサイトで見ることができます。(ただし,結構グロい映像満載ですので,ご興味のある方だけご覧下さい・・・。><) http //archive.nlm.nih.gov/proj/ttp/vesaliusgallery.htm ↑ か カーンサウフ (カイロ) New! +... カーンスーフ・アル=ガウリー Al-Ashraf Qansuh al-Ghawri ??〜1516 教科書的には,オスマン・トルコとの壮絶な戦いで戦死したエジプトのマムルーク朝(ブルジー朝)の「ほぼ」最後のスルタンとして名前を残していますが,実は意外なところでヨーロッパと繋がってます。それは,紅海における対ポルトガル戦争です。紅海沿岸の諸都市は,まるでDOLにおける旗替えみたいに(笑),史実でもポルトガルとイスラム勢力が取ったり取られたりの街を巡る攻防を繰り返していました。カーンサウフさんはその攻防戦を仕掛けたスルタンです。 といっても,カーンサウフさんは何も好き好んで自ら戦争をふっかけたわけではありません。「大航海時代」以前までイスラム教徒にとっての「庭」であった紅海に突如土足で踏み込んできたのは,ポルトガル人のほう。当時の花形交易品コショウはインドからイスラム商人を経てヴェネツィアに持ち込まれ,そこから欧州に分配されていくという確固とした市場が成り立っていました。それに対してポルトガルは喜望峰周りでコショウを欧州に持ち込みますが,それだけではコショウ市場をヴェネツィアから奪うことはできません。彼らがやったのは,露骨な営業妨害。つまり武力による紅海ルートの寸断です。国家経済の基盤である中継貿易のルートを寸断されて堪忍袋の緒が切れたスルタン・カーンスーフは,1505年についにポルトガル艦隊討伐のための遠征隊を紅海に送り出します。マムルーク側はジェッダの防衛を固める一方,ポルトガルは一時ソコトラに基地を置いたりアデンを占領したり,ディブ沖で大海戦が行われるなど,DOLでおなじみの街々を舞台に熾烈な戦いを繰り広げたのでした・・・。これって,当時の世界経済上すっごく重要な大事件なのに,こーゆーローカルな戦いって,ナゼか教科書に載ってないのよね・・・。>< スルタン・カーンスーフは対ポルトガル戦争のためオスマン・トルコに援助を求め一時連合軍を組みますが,これは結果的に彼(および彼の王朝)の寿命を縮める結果となっちゃったみたいです。エジプト経由の交易路の重要性を再認識したオスマンは弱体化したエジプトに攻め込み,マムルーク朝を滅亡させてしまいます。さらに勢いに乗って艦隊をインドまで派遣。結果的にこの東征は中途半端に終わりますが,ポルトガルの紅海封鎖作戦はこれを契機に瓦解し,紅海経由の交易ルートは無事再開したのでした。そしてコショウはというと・・・,せっかく隆盛を極めたリスボン市場も王家の硬直的な独占事業により信用を失い自滅,一方ヴェネツィアでは安全になった紅海ルートにより品切れ状態が解消され,コショウ市場が完全復活したのでありました。実はヴェネツィア,同じキリスト教国ということで公然と対ポルトガル連合軍には加われませんでしたが,秘密裏に相当の後方支援をしたよーです。結局この戦争,最後に笑ったのはしたたかなヴェネ人だったり・・・。^^; ギーズ公爵 (マルセイユ離宮) +... ギーズ公フランソワ1世 François I de Guise 1519〜1563 ギーズ公アンリ1世 Henri I de Guise 1550〜1588 ギーズ公爵家は,16世紀にフランス王家(ヴァロア家)と肩を並べるほど勢力を誇った名家です。その中でもっとも有名なのが,父フランソワとその息子アンリ。DOLは大航海時代の特定の年代を想定した設定ではありませんので,NPC「ギーズ公爵」がそのどちらを指すのかまでは残念ながら特定できません。しかし,まあ,歴史の流れから言えば,この2人はやることなすこと似てますので,親子でワンセット,と考えてもまあよいでしょう(超乱暴な見解ですが・・・。><) フランソワ・アンリ親子の生きた16世紀後半は,大航海時代であると同時に宗教戦争の時代でもあり,フランスでは特にユグノー戦争と呼ばれる泥沼の内戦状態の時期でもありました。その中でカトリック勢力側の指導者として勢力をふるったのがギーズ公フランソワです。そもそもユグノー戦争の直接の引き金となった1562年の事件「ヴァシーの虐殺」はギーズ公フランソワの指示によるものとされており,時の摂政カトリーヌ・ド・メディシスが敷いたユグノー(プロテスタント)宥和策に対してギーズ家=カトリック勢力が公然と反旗を翻したセンセーショナルな事件でした。 その後フランソワはプロテスタント側の刺客によって暗殺されますが,その遺志は息子アンリによってさらに過激な形となって継がれます。ギーズ公アンリによってひきおこされた(とされる)事件で最も有名なものが1572年の「サン・バルテルミの虐殺」で,プロテスタント側の首領ナバーラ王アンリ・ド・ブルボン(後のフランス王アンリ4世)と王女マルグリット(DOLではナントNPC)の結婚式の最中に起こった忌まわしき事件です。この事件により数千〜一万人ものユグノーが虐殺されたとされています。 このように血で血を洗うユグノー戦争のさなか,「○○の虐殺」という歴史の教科書に載っちゃう凄惨な事件を親子2代で立て続けにやっちゃう過激なギーズ親子ですが,彼らの「活躍」はプロテスタンに傾きつつあったフランス王家を結果的にカトリック側に奪還することに成功し,そこからフランス絶対王政の基礎が築かれていくわけですから,歴史の運命の輪は判らないものです・・・。 コンデ公爵 (マルセイユ離宮) +... ブルボン=コンデ公ルイ1世 Louis I de Bourbon-Condé 1530〜1569 DOLのマルセイユ離宮ではこのコンデ公とギーズ公が仲良く並んで立ってますが,実は超仲が悪いです(ちなみに離宮内のもうひとりのNPC,モンモンラシー大元帥もカトリックでギーズ公派)。プロテスタント側の指導者とカトリック側の首領。離宮内で一見平静を装って並び立つお二人の間には,実はどす黒い陰謀という名の暗雲が渦巻き,冷たい火花がパチパチとスパークするのでありました・・・。こ,コワ〜っ。>< コンデ公爵家はこのコンデ公ルイのときに創設された新しい公爵家であり,本家ブルボン家の傍系です。ブルボン家というとフランス絶対王政が直ちに連想されるかもしれませんが,このころのブルボン家はまだ王家ヴァロア家の外戚としての一有力貴族に過ぎません。コンデ公ルイの甥にあたるブルボン本家筋のナバーラ王アンリ(後のフランス国王アンリ4世,ブルボン王朝の祖)はプロテスタント側貴族たちの精神的支柱であり,コンデ公ルイはプロテスタント側の実質的な指導者でした。 コンデ公ルイとギーズ公フランソワは対外戦争こそ共闘して神聖ローマ帝国皇帝カール5世(=スペイン国王カルロス1世)の軍と戦ってこれを撃破したりしておりますが,国内ではアンボワーズの陰謀という国王誘拐事件をきっかけにギーズ公がコンデ公に一方的嫌疑をかけ逮捕してしまいます。後に時の摂政カトリーヌ・ド・メディシス(この方はDOL内では,フランス・ヴェネツィアの国イベントに登場する「毋后」に相当すると推測されます)のプロテスタント宥和策によってコンデ公は恩赦され,プロテスタント側も息を吹き返して行くのですが,その反発としてギーズ公が起こした虐殺事件(ヴァシーの虐殺)がユグノー戦争という泥沼の内戦に繋がっていくのでした・・・。 コンデ公ルイもギーズ公フランソワも(およびその息子アンリも)モンモランシー公アンヌも,みんな最後にはユグノー戦争の最中,暗殺されたり戦死したりしてます。DOLのマルセイユ離宮は戦争前の平和な時代の一コマなのか,それとも嵐の前の静けさなのなのか・・・。この離宮に来るといつも目が潤みます。アーメン。>< ↑ さ サンタ・クルズ侯爵 (セビリア王宮) +... サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサン Álvaro de Bazán, Marqués de Santa Cruz 1526〜1588 スペイン語読みでは「サンタ・クルス」ですが,ナゼかDOLでは「サンタ・クルズ」と濁点が付いてます。ま,まあ,細かいとこは気にしない気にしない〜。^^; サンタ・クルス侯爵アロバロさんはイスパニア海軍の提督で,イスパニア海軍の基礎を築き上げた気骨のある軍人さんです。当時のイスパニアは誉れ高き精鋭陸軍はあったものの,海軍はアンドレア・ドーリア(ジェノヴァ人)などお雇い外国人に丸投げしっぱなしで,到底誇れる自前組織ではありませんでした。そんな海軍軽視の風潮の中で,自国常設海軍の必要性を説き,それを創り上げ,指揮統率し,勝利に導いて来た人こそがサンタ・クルス侯でした。彼の戦績の中でも最も有名なのが,レパントの海戦です(名目上の総司令官は,国王フェリペ2世の弟ドン・ファンですが・・・)。 サンタ・クルス候は台頭するイングランドの脅威をいち早く察知し,イングランド征服計画(すなわち無敵艦隊の創設)を立案し,国王フェリペ2世を再三にわたり説得しようとします。計画は単に兵士や船乗りを集めればよいものではなく,造船・大砲鋳造・補給物資調達など多岐に亘り(まさにDOLみたいですね!w),予算オーバーによる計画変更の憂き目にも遭いながら,侯爵は精力的に自身の計画を実現しようと頑張ります。しかし,気弱で日和見で吝嗇な政治感性のフェリペ2世にのらりくらりと先送りされ続け,残念ながら後一歩というところで夢半ばにして寿命を迎えてしまいます。アーメン。 【余談】さて,無敵艦隊の計画の方はと言いますと,その後,最も最悪な形で中途半端に実行に移されることになります。むちゃくちゃに予算を削られて戦力を大幅縮小したあげく,凡庸で戦知らずのメディア・シドニア公(DOLにはバレアレス諸島沖の海上NPCで登場してます)に無理矢理の総司令官のお鉢が回ってきて,イヤイヤながらしょーがなく出航・・・あとの顛末は歴史の教科書にある通りです。てゆうか,肝心の戦は決して華々しい海戦があったわけでもなく,イングランドの「勝利」というよりイスパニアの「自滅」。敗因の殆どが座礁による難破です。トホホ・・・。こんな艦隊に「無敵」なんて名前つけたのダレ〜?>< ・・・って,実はこれはイングランド人が国威発揚ために後からわざわざ付けた名前。スペイン語でArmadaを直訳すると,単なる「艦隊」です。さすがイングランドの殿方,ユーモアというか皮肉はこの当時から超一流です。歴史では「If」は禁句ですが,やはり「もし」サンタ・クルス候がもう少し長生きして,計画通りの「無敵」艦隊を指揮してたら・・・,イングランドは滅亡して現代ヨーロッパの趨勢もだいぶ変わってたかも知れません。まあ,やっぱり「If」ですが。^^; 楽士ジェズアルド (ナポリ,ジェズアルド邸) +... カルロ・ジェズアルド・ダ・ヴェノーサ Carlo Gesualdo da Venosa 1566頃〜1613 DOLでは何故か「楽士」となってますが,貴族のお生まれです。ナポリに近いヴェノーサ公爵家の御曹司。ですので,当時の階級制度からは「楽士」と呼ぶのは超失礼なような・・・( )。不倫の疑いがある妻を殺害したため,生涯を通じてかなりスキャンダラスな人生を送ったようです。ちなみに当時は貴族が不倫の妻を殺害しても特段罪には問われない時代でしたが(ひ,ひどすぎる… ),ジェズアルドさんの場合は嬰児殺しの嫌疑がかけられたり,不倫相手の遺族から復讐されそうになって逃亡生活を送ったりしたため,社交界では相当なスキャンダルになったようです。 一方,作曲家としては,フェラーラの宮廷(当時ルネサンス音楽の中心地のうちのひとつ)で活躍するなど,当時から相当高い評価を受けていたようです。半音階的進行や不協和音など大胆な和声を多用するなど,ルネサンス音楽の様式を逸脱しそうな斬新で個性的な曲を多く残し,その後の1600年代から発生するバロック音楽の幕開けを予感させるものがあります。なお,日本語の本やCDでは「ジュズアルド」という表記をするものもあります。 ジェズアルドさんの音楽はYouTubeなどで視聴できます。 http //www.youtube.com/watch?v=81Fq2ztkxyI http //www.youtube.com/watch?v=O2AFBL6Yi6Q http //www.youtube.com/watch?v=givR0_09rZ0 【余談】大航海時代は,音楽史的には後期ルネサンスから初期バロックに移行する百花繚乱の大変革時代で,例えばスペインのアントニオ・デ・カベソン,イタリアのジョバンニ・ガブリエリ,クラウディオ・モンテヴェルディ,イギリスのウィリアム・バード,ジョン・ダウランドなど,この時代は後世に残る素晴らしい作品を残した作曲家を鬼のように輩出してます。嗚呼それなのにそれなのに・・・,数ある音楽家のなかからNPCとして採用されたのはジェズアルドさんお一人なのはナゼ〜っ? DOLはクエストを見ても音楽関係のものは殆どありませんし,当時の音楽にお詳しいスタッフさんはいらっしゃらないのでしょうかねぇ〜。;_; ジャーノ・フレゴーゾ (ジェノヴァ元首執務室) +... ジャーノ・ディ・カンポフレゴーゾ2世 Giano II di Campofregoso 1455–1525 第43代ジェノヴァ共和国総督(ドージェ)。1512年〜13年の間の11ヶ月間だけ総督の座におられたようです。ジェノヴァ共和国は中世以来ヴェネツィア共和国と覇権を争うほどの海運国(海軍国)として名を馳せましたが,支配層である貴族間の抗争が多く,16世紀前半までは総督職もクーデタまがいの非合法的な政権交代でころころと短命で変わっただけでなく,フランスなど外国勢力にしばしば占領されたりと,極めて不安定な政情だったようです。ジャーノはジェノヴァの名門貴族フレゴーゾ一門の生まれですが,時のローマ教皇ユリウス2世の元で騎兵隊長として仕えており,当時フランスに占領されていたジェノヴァを交渉の末解放し,それの功績が認められ空席だった総督に就きました。しかしこの政権も1年も待たずにフランス派の巻き返しに遭い,政権を追われたジャーノはなんとライバル国ヴェネツィアに逃げ込みます。このヴェネツィアでも腕を買われ,陸軍総司令官などを任されていたようです。こういった国を跨ぐしたたかさは典型的なルネサンス人ですね・・・。^^; 【余談】ちなみに,こういったジェノヴァの一連の泥沼政争に終止符を打った立役者が,アンドレア・ドーリア Andrea Doriaです。彼はもともとフランス国王に仕えていた身でしたが,勢力を伸張していたイスパニアに鞍替えし,結果的にフランスの占領からジェノヴァを救い,以降はイスパニアの後ろ盾がありながらもジェノヴァの独立性を取り戻して,ジェノヴァ黄金期を導いたのでした。というわけで,ジェノヴァ的NPCだったらドーリアさんの方が超有名人だと思うのに,彼は単なる海上NPCとしてリグリア海に浮いてます(しかもヴェネツィア国籍。これは絶対ヘン!)。KOEIさんの人選基準がわからん・・・。 シャイロック頭取 (ヴェネツィア,シャイロック邸) +... シャイロックさんはDOLのNPCにしては珍しく実在の人物ではありません。ご存知,シェークスピアの戯曲『ヴェニスの商人 The Merchant of Venice』(1597頃)の登場人物のうちの一人です。というわけで,この欄,書くことない・・・w,というのもなんですので,ここは当時のヴェネツィアの状況を知るために,塩野七生大先生にご登場頂こうかと思います。以下は『海の都の物語』から引用。 『ヴェニスの商人』のアントニオは,困っていた友人に代わって,高利貸のシャイロックから大金を借りてやる。担保は彼自身の肉1ポンドだ。それが,持船が沈没して払えなくなったために起こる話だが,ヴェネツィア商人の損害の分散方式は実に徹底していたので,持船の何隻かが沈没してしまったから一文無しになるというのは,なんとしても非現実的である。まずもって,一隻の船全部を所有していたということも,遠距離用の船ならば,ヴェネツィア有数の財産家でなければありえない。しかも,所有していたとしても,その船に自分の商品だけを満載して航海に出すというような事態は,ほとんどと言ってよいほど起こりえない。また,シャイロックから借りた金は,三千ドュカートという大金である。高利貸から借りたとしても,このような大金をたった一人から借りたというのもうなずけない。必ず何人かに分散して,つまり担保をなるべく少額にして借りていたはずである。 もちろん,大勢のヴェネツィア商人の中には出来損じもいたであろうから,(中略)絶対にありえないと書くことはできない。だが,たとえ存在していたとしても,シェークスピア描くヴェニスの商人を,もしもヴェネツィアの商人たちが知ったなら,同僚としては風上にも置けない類いだと思ったにちがいない・・・(後略) 塩野大先生にかかるとさしものシェークスピアの名作もケンもホロロ・・・。当時のヴェネ人は堅実な現実主義者なのだ〜!w ところで,一般に流布しているシャイロックさんの印象としては,彼はあたかも金の亡者でアントニオに法外な無理難題を吹っかけたような極悪非道の人物かのように思われがちですが,シェークスピアの作品をよく読むと,彼は実に契約や法律に厳格で遵法精神に則っているということがわかります。アントニオに復讐心を燃やしますが,その報復手段はあくまで法的範囲内での正当な債権回収の域を超えません(まあそれにしても「人肉1ポンド」というのはむちゃむちゃですが・・・w)。何の法的瑕疵もない貸し主に対して人権侵害的な暴言を吐いた上,利子減免や契約破棄という法外な要求をしているのはアントニオの方。それを若い法学者(実はアントニオの友人の婚約者が変装)が「ただし一滴の血も流さずに」というあくまで法律の解釈内で示談を計ったというお話です(やっぱりむちゃくちゃですね・・・w)。シャイロックさん,カワイソス。>< DOLでは威厳を保った優しそうなオヂサンとして登場してます。^^ ↑ た タベラ枢機卿 (セビリア王宮) +... フアン・パルド・デ・タベラ Juan Pardo de Tavera 1472-1545 トレド大司教にして枢機卿。イスパニア国王カルロス1世の王室枢密院議長の地位にもあったので,カルロス1世の側近中の側近とも言えるかもしれません。だからDOLでは王宮にいるのね・・・。ちなみにこの時代のイスパニアは「首都」というものが存在せず,王様はトレドやセビリアなど各都市を転々と行脚して政治を行い,お妃様や家臣もぞろぞろとみんな移動する・・・,といういわば移動王室だったようです。タベラ枢機卿もカルロス1世のお伴でセビリアにいたことも・・・たぶんあるでしょう。^^ タベラ枢機卿はこのように聖俗両方の権力を掌握していただけでなく,さまざまな芸術のパトロンでもあり,また慈善事業にも熱心だったようです。彼の後世に残した功績の中で代表的なものが,トレドにある聖フアン・バウティスタ病院(通称,タベラ病院)で,現在は美術館になっておりエル・グレコの絵画などが見ることが出来るそうです。(ただし,エル・グレコが活躍した時期は,タベラ枢機卿が亡くなってからだいぶ後なので,このコレクションは後世の所有者によるものです)。 鄭成功 (安平,承天府) New! +... 鄭成功 てい せいこう Zhèng Chénggōng 1624〜1662 台湾の殿おん!ですっかりおなじみの「殿」,鄭成功さんは,実は我々日本にとっても非常〜に深いご縁があります。まず,文楽(人形浄瑠璃)で最も有名な演目のひとつ,「国性爺合戦」。文楽を見たことない,あまりご存知ない,という方も近松門左衛門と聞けば誰でもおわかりになるハズ〜。そう,その近松門左衛門の代表作のうちのひとつです。史実に基づいたドキュメンタリータッチの(もちろん近松流の創作・脚色もバッチリ入ってますが)大ヒットロングラン公演の主人公が,鄭成功さんその人。元禄の老若男女のハートをわしづかみにした超カッコいい,日本古典芸能におけるスーパーヒーローです。 もちろん,史実でも日本と深い関わりがあります。彼の出生地は日本の平戸。お母さまは日本人女性で,母方の一族は平戸でも指折りの豪商でした。そしてお父上は,倭冦(=国際広域海賊)の元・総元締にして当時飛ぶ鳥落とす勢いの明王朝高級官僚・鄭芝龍。仮にゴーインに現代に置き換えたら,元香港マフィアのボスにして中国政府に鞍替えした若き大物政治家と,日系グローバル企業の社長令嬢とが大恋愛の末電撃結婚,その二人の間に生まれた超セレブな天才御曹司・・・というイメージでしょうか。>< もちろん,豪華なのは出自だけではありません。異国の地にありながらエリート教育を受けた彼は,自身も勤勉実直に努力してなんと15歳にして科挙に合格。その後も明王朝滅亡期にあって若くして頭角を現し,皇帝から名字を賜る(国性爺もしくは国姓爺と言われているのはこのため)など大出世。はたまた父の失脚(清王朝への降伏・投獄)後,競争相手の親族を粛正しつつも荒くれ者どもの船団を束ね一族の総帥に上り詰めるのでした・・・(現代だったら,ハーバード大卒にして国防省エリートを経て,最後は国際シンンジゲートのドンに返り咲き・・・ってカンジ?w)。 鄭成功さんの手にした船団は,倭冦と明王朝海軍を足して2で割らない(!)ような恐ろしい規模で,おそらく当時史上最強だったかもしれません。実際,明王朝復活を夢見て態勢を立て直すため,鄭成功さんはいったん台湾に渡りますが,当時そこを支配していた世界最強のネーデルランド海軍をあっさり駆逐します。また同時に,鎖国を始めたばかりの徳川政権にも対清包囲網への参加要請を出し,幕府内でも真剣にそれを検討したことがあるそーなのです(結果的には,様子見してたら時期を逃しちゃった・・・て,トホホな外交政策なのは今も昔も相変わらず。><)。仮にもし幕府が動いてたら,鎖国政策もふっとび,日本の開国は200年早かったでしょうね〜。・・・なんて壮大な妄想をしたくなるくらい,当時激動の東アジア情勢の最中まさに文字通りインターナショナルなご活躍。中国本土では明王朝滅亡後も亡命政権の皇帝一族に恭順を示したことから今でも忠孝の君として敬われ,台湾ではネデ人を駆逐して事実上初の漢民族政権を建てたことから台湾の祖として崇められ,そして日本では文楽・歌舞伎を通じて庶民のヒーロー。海洋歴史小説で有名な白石一郎氏がいみじくも指摘しておりますが,日本・台湾・中国のいずれの地でもこれだけ賞賛されている英雄はひじょーーーに珍しいそうで,このヒト以外まずいないでしょう〜(残念ながらたいてい,どこかの国の英雄はどこかの国の仇敵だったりしますので・・・><)。それだけ,当時の国際社会で縦横無尽に天衣無縫に生きた(ついでに言うと,猪突猛進型でちょっとだけ誇大妄想が入っちゃってるところがステキな)愛すべきスーパーヒーローということなのですね・・・。^^ ドゥアルテ・ロペス (オポルト,ドゥアルテ・ロペス邸) +... ドゥアルテ・ロペス Duarte López 1550頃〜1623頃 この方はさすがのWikipedia先生もご存知ないらしく,質問してもさっぱり答えてくれません。なので,一生懸命調べちゃいました(笑)。どうやら,「ポルトガルの商人で,1600年ごろコンゴやアンゴラに交易に出かけた」というくらいしか判っていないようです。ではなぜ後世に名を残しているかというと,「コンゴ王国に関する報告書」“ A Report of the Kingdom of Congo” や「コンゴおよび中央アフリカ」“Congo and Central Africa” という貴重な紀行文を書いているからです。正確に言うと,「書いた」のはフィリッポ・ピガフェッタFilippo Pigafettaというイタリアの人文学者で,ロペス氏の口述を書き取ったという形式になっています。マルコ・ポーロの「東方見聞録」と同じパターンですね。(こちらは口述者があまりに有名なので,完全に作者扱いになってますが・・・。) なお,「コンゴ王国に関する報告書」は1881年版(英語版)がネットでまるまる無料で読めます。便利な世の中になったもんですね〜。^^ http //www.archive.org/stream/areportkingdomc00hutcgoog#page/n8/mode/1up また,「コンゴおよび中央アフリカ」“Congo and Central Africa”の原著は下記のサイトで図版付きで見ることができます。うーん。いかにも大航海時代〜♪ってカンジ。ちなみにこの本は6万€(=約600万円)で現物を買えるみたいです。奥様,お宅にお一つ如何ですか〜?w http //www.forumrarebooks.com/Pigafetta-Filippo-Relatione-del-reame-di-congo-et.html ↑ な ↑ は(別ページリンク) ↑ ま(別ページリンク) ↑ や(別ページリンク) ↑ ら(別ページリンク) ↑ わ・ん(別ページリンク) ↑ ●コメント欄 またまたゲーム攻略にぜんぜん関係ないページを作ってしまいました。>< とりあえず,wikipedia先生に聞いてもあんまし答えてくんないマイナーな方々から初めてみました。w でも数えてみたら街中NPCだけで100人近くいるので,途中でザセツするのは目に見えてマス。ぜひぜひみなさまご協力クダサイ〜。(特にTさんとかNさんとか・・・。^^;) -- 四姉妹 (2010-07-18 15 44 31) なんかWikiさんにページ容量超えてます!みたいに怒られちゃったので (;_;),ページを二つに分けてみました〜。 -- 四姉妹 (2010-10-16 13 01 52) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/marinaro/pages/138.html
年表、人物と来たので港にもスポットを当ててみませう。 3つか4つで飽きる予定。 第一回 ラグーザ Ragusa(伊) +... DOLではヴェネツィア領地で造船修行の港として著名なラグーザは、現在はクロアチア領ドゥブロヴニク(Dubrovnik)と呼ばれています。今ラグーザをぐぐる先生で調べるとシチリア島のラグーザが引っかかるのでご注意を。 起源は古くローマ帝国時代かそれ以前まで遡れるそうです。11世紀頃からヴェネツィア共和国の影響下で発展し14世紀半ばにはラグーザ共和国として独立。後背地のボスニアやセルビアからの鉱石の積出港として栄え、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出してくると宗主権を認めて庇護下に入り、ヴェネツィアに代わって東西交易での中継港の地位を獲得していきます。おそらくDOLとしてはこの辺りの時代背景で港として取り上げられたのではないかと思われます。(その割りにはオスマンではなくヴェネ領地ではないかというツッコミは一切無視します) 15~16世紀に最盛期を迎えたラグーザは17世紀半ばの大地震の影響で緩やかに衰退し、歴史の表舞台からは去るわけですが、さすがヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島の都市です。一筋縄ではいきません。 19世紀初頭にナポレオン皇帝により共和国が解体されると、オーストリア帝国に併合され、2重帝国支配化に置かれます。第一次世界大戦でその支配下から逃れると20世紀初頭にはセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国に編入、1929年のユーゴスラビア独立とともにユーゴスラビア領となり、更に1991年クロアチア独立とともにクロアチア領となりました。 クロアチア独立の際の内戦でアドリア海の真珠と呼ばれた美しい街並みが戦火に曝され、世界危機遺産リスト(1991~1998)に載ったこともありましたが、今日ではホテルやレストランなども整備され世界中から観光客を呼べるクロアチア最大の観光都市として栄えているそうです。 ちなみにジブリ映画「紅の豚」のモデルの一つにもなったそうですよ。さすがアドリア海の(豚に)真珠。 第二回 ダンツィヒ Danzig(独) +... DOLではダンツィヒで知られるグダニスク(グダンスク Gdańsk 波)はバルト海に面するポーランド最大の港湾都市です。 グダニスクを含む周辺地域はポモジェ地方と呼ばれ、12世紀末~13世紀初頭にはデンマーク王国(ヴァルデマー2世)の影響下にありました。13世紀初頭、父であるグダニスク候ムシチュイ1世からその地位を相続した息子シフィエントペウク2世は、デンマーク支配下から抜け、ポーランド国王(クラクフ公レシェク1世)に臣従します。ポーランド王からポメレリアの支配権を安堵されたシフェイエントペウク2世はその後グダニスクに自治権を与えることになります。 自治権を与えられたグダニスクは当時人口2000名ほどの小さな地方都市でしたが、リューベックを模した都市法を導入し、13世紀末までにはポメレリアを分割統治するほどの権力を蓄えました。 14世紀初頭、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)によりグダニスクが占領されドイツとポーランドの間で戦争が勃発しました。ポーランドは勝利を収めながらもグダニスクをチュートン騎士団へ貸与することになります。(カリシュの和約1343年) もともと自治領としての歴史を紡いできたため、チュートン騎士団の支配下でも順調に港湾都市として発達を続けたグダニスクにはこの頃からドイツの移民が増えはじめます。 14世紀半ばにはハンザ同盟へ加入し更なる経済的繁栄を遂げますが、同時に徴税権や裁判権を乱用するチュートン騎士団との対立を深め、15世紀初頭に起きたドイツポーランド戦争(グルンヴァルドの戦い)では再びポーランド側について戦うことになりました。 この戦いでもポーランドが勝利しグダニスクは念願かなってポーランドに帰属…はやっぱり出来ませんでした。チュートン騎士団領は領土割譲などで版図を大きく削るもポーランド王国に隷属という形で残り、グダニスクはその残る部分だったのです。 15世紀半ば、ポーランド王国の庇護を求めてプロシア連合(プロイセン連合ともいう。チュートン騎士団に対抗するための同盟)の設立に参加し、チュートン騎士団の利権排除を目指して13年戦争と呼ばれる戦争を始めます。この戦いでもポーランドが勝利を収め、グダニスクは3度目の正直でようやくドイツの支配から逃れてポーランドの庇護下に入ることになりました。同時にポーランド国王カジミェシュ4世からは自治都市としての特権も認められ、ここから18世紀初頭にかけての2世紀半いわゆる黄金期を迎えることになりました。 DOL的にはちょうどこの黄金期真っ只中ということになり、ドイツ的名称「ダンツィヒ」は影もカタチもない時代と言えますね。なんでダンツィヒになったのか、今度英語圏でのサービスが開始されますが、ダンツィヒの扱いにちょっとわくわくしますw 閑話休題。 ポーランドは移民に寛容な風土があるそうで、上述通りチュートン騎士団の影響でドイツ系移民が増えた時代を経てポーランド人(本国から流入)、ユダヤ人、オランダ人(対イスパニア戦争の難民など)、宗教改革の時代にはルーテル派(ドイツ中産階級)、カルヴァン派(オランダ中産階級など)の受け入れもしたそうです。民族間、宗教間で対立しなかったのはそれだけ経済的に潤っていたからなのかなーなどと穿った見方をしたくなりますね。お腹が脹れてるならけんかする必要ないのです。 18世紀半ばになるとグダニスクはロシアに占領されます。18世紀末の第二次ポーランド分割の際にグダニスクはプロイセン王国へ併合され、正式名称を「ダンツィヒ」と改めます。歴史的にダンツィヒの名前が初めて登場しました。 19世紀初頭フランスでナポレオン皇帝が権力を握り周辺各国への影響度を強める(=プロイセン王国の力が削がれる)と一時的に独立自治を取り戻したダンツィヒ(グダニスク)ですが、ナポレオン戦争終結によってあっさりプロイセン王国の支配下に引き戻されてしまいました。この頃からドイツは明確な支配権を行使するようになり、文化的同化政策を徹底するようになりました。 第一次世界大戦でドイツが敗北し、国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」として1世紀半ぶりに独立自治を取り戻したダンツィヒですが、住民はドイツ人、外交権はポーランド(戦勝国)というねじれがおきます。かつては起きなかった民族対立が起きてしまったのはダンツィヒの港湾都市としての衰退を象徴しているのではないでしょうか。 以後第二次世界大戦を経て20世紀半ばにポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒは旧名グダニスクに複名し、ポーランド領へ約160年ぶりに復帰することになります。 現在のグダニスクはポーランド有数の観光地で、且つ主要貿易港でもあり続けています。第一次世界大戦、第二次世界大戦で破壊された旧市街はポーランド市民の手によって精密に復元され、近々世界遺産に登録されるのではないかと言われるほど文化的価値が高く評価されています。 第三回 アルジェ Alger(仏) +... アルジェリア民主主義人民共和国の首都であり、同国最大の都市です。 アフリカ大陸北岸に位置し、地中海に面しており、要塞都市として長い歴史を持ちます。 紀元前1200年頃にフェニキア人が入植したのが起源とされ、ポエニ戦争(紀元前264~146)でローマ帝国領土となり、5世紀半ばにはゲルマン人に、次いで東ローマ帝国に支配され、その東ローマもアラブ人に放逐されるなど、常に周辺国家間の支配を受け続ける状態でした。 10世紀半ばに先住民族のベルベル人によって現在の市街地が整備され、以後500年にわたってヨーロッパ、アラブ、ベルベル人が支配権を握り合いました。 1510年にスペインがアルジェ沖の小島を支配すると、アルジェの支配者であったハイレディン兄弟がオスマン帝国に支援を求めスペインと対立する道を選びます。 アルジェを謙譲してオスマン海軍の総司令官職を得たハイレディンはその武力を背景に地中海での海賊行為を繰り返し、アルジェ沖は海賊海岸としてヨーロッパ各国から恐れられました。DOLでもウザイほどにNPCが沸いてますよね。あれはこういう歴史的背景を下敷きにしているものと思われます。 (なおハイレディンのその後はたぶんDOL的人物で誰かが詳しく解説してくれると思います。本稿はあくまでアルジェに焦点を当てていきますよ。) アルジェは交易上の拠点としての側面を持ちながらも19世紀初頭までの約300年間、変わらず海賊海岸としてその名を轟かせていました。 現代の海賊は船舶を襲撃し乗員を人質として身代金ビジネスなどで稼ぐそうですが、当時は密貿易と交易品強奪が主な活動内容だったそうですよ。 なににせよ困窮を非合法活動の旗印にする、セコイ上に非常に迷惑な行為であることは間違いありません。 さてアルジェです。1815年アメリカが海軍力を背景にアメリカ船籍への攻撃を中止する平和条約を求めるも拒否したことが転換期だったのでしょうか。翌16年にはイギリス・オランダ連合艦隊の艦砲射撃を受けアルジェ艦隊は壊滅的な打撃を受けます。そして1830年オスマン艦隊としてのアルジェはやりたい放題の300年の歴史に幕を閉じたのです。 同年フランスがアルジェへ上陸、その後アルジェリア全土を占領しました。1962年に再独立を果たすまで、アルジェを含むアルジェリア全土はフランスの植民地となりました。 現在の大理石の白さが眩しいアルジェの街並みはこの頃に完成したものです。 旧宗主国であるフランスとの結びつきは大変強く第二公用語はフランス語、輸入製品の大部分はフランスからのもので、出稼ぎ労働者や移民の先も圧倒的にフランスと言う状態です。 サッカーでもフランス代表になったアルジェリア系移民の選手は大勢いるようですよ。有名どころだとジネディーヌ・ジダン選手あたりでしょうか。 アルジェの話題からは大分ずれてしまいましたが、オチもなく終わりです。 第四回 ヤーデイン 現地語表記不明 +... DOLではヤーデインとして実装されている港は恐らくは現在ホーチミンと呼ばれるベトナム最大の都市のことだと思われます。DOLの港名はなぜその名前が採用されたのかよくわからないことが多いのです。不勉強といわれればそれまでですが、いつかネタにしようと思ってるアチンとかも意味不明だし… ともかく本稿ではヤーデイン=ホーチミンだと決め付けて紹介していきます。 閑話休題。 海運の発達によって港湾都市が力をつけるというのは何もヨーロッパ圏に限った話ではなく、今回のヤーデインもかつてはクメール人(カンボジア王国)の小さな漁村でした。その当時はプレイノコールと呼ばれていました。クメール語でプレイ=森、ノコール=都、町、土地と言う意味のようです。 1623年カンボジア王チェイ・チェッタ2世が内戦から逃がれてきたベトナム難民にプレイノコールにベトナム式の生活様式を維持した上での定住を許可すると、ベトナム系移民が爆発的に増えていきました。先住のクメール人が軒を貸して母屋を取られたようなものですね。カンボジアは当時タイと戦争状態で疲弊しており、ベトナム難民を受け入れられるような状況ではなかったのですが、勝手にやってくる難民を押しとどめる国力もなかったため、ある意味ベトナムによる文化侵略を受けたといえます。 1698年ベトナムはこの地域からカンボジアの影響力を排除するためグエン・フー・カインを統治者として送り込みました。彼は定住者の拡大を図り街としての体裁を整えていきます。 街の名前もベトナム風に変わり「Gia Định(ザーディン・嘉定)」と呼ばれるようになります。なおザーディンは街の名前ではなく城の名前(嘉定城=ザーディン城。フランスとの植民地戦争で消失)だという説もあります。 以後150年ほどベトナムの支配下にあったザーディンは19世紀半ばベトナムがフランスに敗れて支配権を割譲したことでフランス支配下となりました。1862年ザーディンを中心に現在のラオス、カンボジア地域も加えた仏領インドシナが誕生します。 宗主国となったフランスは正式名称ザーディンから、市民の間で一般的になっていたSài Gòn(サイゴン)という呼び名を採用し、街の名前を改名しました。 植民地となったサイゴンはフランスの影響のもとで植民地貿易の中心として急激に発展し、その美しさは「極東の真珠」とも「東洋のパリ」とも形容されるほどです(コロニアル文化=植民地文化)。今もなお当時の欧風建築物が残っていて大変美しい街並みだそうですよ。行ってみたいものです。 1939年ドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦の影響は東南アジア諸国にも及びベトナムも日本とフランスの二重統治下におかれて政情不安になっていました。本流であった王政復古と、その支配を良しとしない共産主義者との対立は冷戦下における列強の介入を招きますが本稿の趣旨からは外れますので割愛します。 対仏独立を目指した共産主義ベトミン(指導者ホー・チ・ミン)はディエンビエンフーの戦いでにフランスを破りました。これによってフランスはベトナム全土から撤退し、仏領インドシナは約90年の歴史に幕を下ろしました。サイゴンはベトナム王バオ・ダイ帝の政府に組み込まれその首都となります。同年ジュネーヴ協定によりベトナムが北ベトナム(ベトナム民主共和国・首都ハノイ)と南ベトナム(ベトナム共和国・首都サイゴン)に分断されました。 以後東西冷戦下で自由の砦を標榜し南ベトナム支援で泥沼にはまったアメリカと共産圏支援の北ベトナムとの間でベトナム戦争のどろどろとした歴史がありますが、これまた長いので本稿では触れません。 またまた閑話休題。 1975年ベトナム統一によりベトナム社会主義共和国が成立すると、サイゴンは周辺地域ザーディン省と統合され共産党指導者のホー・チ・ミンの名を冠したホーチミン市(ホーチミンシティ)となりました。ですが今でもサイゴンの名称はホーチミン市の市内でも店の看板などで見られるそうです。サイゴンといえば「お洒落な雰囲気」をイメージするそうですよ。なおベトナムの首都はハノイですが、経済の中心はホーチミンです。DOLに採用された理由は海に面した都市であるというのもありますが、経済都市であることも大きく影響しているのではないでしょうか。 以下うれさん宛て私信。 ベトナムといえば「水曜どうでしょう」最終旅(一応)の舞台です。北ベトナムの首都にして現在はベトナム社会主義共和国首都ハノイ、南ベトナム首都にして現在は経済の中心と言われるホーチミンをカブで旅する1800キロだったんですねぇ。こう聞くと少しは親近感沸いてくるんじゃないですか?w 10/10/08 第四回ヤーデインを追加。 10/08/09 アルジェをなぜかアルジェリアと書いていたのを修正。 以下余白だよっと。
https://w.atwiki.jp/marinaro/pages/139.html
DOL的年表 DOL的人物 DOL的港 先生、コレなんて読むの
https://w.atwiki.jp/zero-flora/pages/42.html
商会専用DOL辞書 みんなで自由に編纂していこう! ※ページ編集では、最後の行の「#table_zebra()」の記述を消さないでください 【ら行】 リス りす ポルトガルの本拠地・リスボンの事。非常に便の良い立地であるため多くのプレイヤーが集まる。バザーや商会ショップが非常に多く、リスでなら何でも手に入るという欲望の街。 リーベル王国 りーべるおうこく (ボレアス伝説時代のプレイヤー)かつてセビリアに存在した 廃人投資商会。商大栗+大型福船x4の艦隊を常時5艦隊以上 昼夜の別なく航海させて、巨額のゲームマネーを武器にマスリパタム、ナポリ他 イスパニア同盟港を維持すべく活動していた。ゲームマネーがその価値の全てであり、かつての ホリエモンも顔負け。貧乏プレイヤーは一顧だにしないという いやな奴ら。セビリアにおいてですら 彼らのことを語るのは 禁忌とされ アンタッチャブル扱いw。パスワードを盗まれたらしく あえなくキャラデリ そして王国消滅となった。ネデのヨロズヤとの壮絶な投資合戦は 長く語り継がれた伝説である。現在のATS鯖においての イング メラ艦隊のような存在の敵役である レア れあ Rare 希少な、珍しいを意味する英語。レア艦隊、レア収奪、レア物なんて感じでつかわれます。 六郎 ろくろう 2013年9月21日 航海者の館のHPにて DOL休止宣言をした。イスパニアの名物キャラであり航海者の館の会長を長きにわたりつとめてきた。ネデ人にとっては 邪魔な存在が消えたとともいえ、衰退イスパニアを象徴する出来事である。リスボンでひたすら商会員募集の看板だしていてよもやと思っていたら... ロット ろっと クジの事。NPCの道具屋や工房、造船所で買い物をすると貰えるNo.ロット、イベントなどでお金を払って買う(形式上は投資とその御礼)ロットなどがある。No.ロットは、一回にいくらの買い物で貰えるかや、何が当たるかが地域によって異なる。お金で買うタイプのロットは、払った額相応のモノが当たるが、額に見合わないゴミクズアイテムを引く事もある。ま、クジだし。 ロンスク ろんすく ロングスクーナーの略。登場以来 快速船としての人気は高い。逆風をもろともしない一方、横風、突風に脆く「耐風マスト」スキルは必須かもしれません。帆性能と旋回、対波のバランスが難しく船大工の腕が問われる難しい船。 ロンドン ろんどん イングランドの本拠地・ロンドンの事。リスボンやセビリアなどはロンドン同様に4文字なのに省略されるのに対し、ロンドンが省略されないのは、「ロン」と呼ぶのがあまりにカッコ悪いからであろう。あるいは、麻雀を想起するからかも知れない。
https://w.atwiki.jp/zero-flora/pages/33.html
商会専用DOL辞書 みんなで自由に編纂していこう! ※ページ編集では、最後の行の「#table_zebra()」の記述を消さないでください 【あ行】 RP あーるぴー ロールプレイの事。PRではない。ある役を演じて楽しむ事。海賊RP、国粋主義RPなど。 RMT あーるえむてぃー Real Money Trading - オンラインゲーム上のアイテム、仮想通貨を金銭と交換する経済行為。当然規約違反行為である。エル・オリエンテ実装後いわゆる南蛮品が高額で売れるところに目をつけた業者が多数参入。国籍はイスパニアとフランスがほとんどでワインが仕入れやすいとこに偏っていていた。度重なるRMT取締と南蛮品の売価下方修正により多くの業者が壊滅したと思われる。 青 あお 宝石・サファイヤの別称 赤 あか 宝石・ルビーの別称 垢 あか (1)古い角質の事(2)アカウントの事。「単垢」「複垢」「2垢」など。 赤ネ あかね 赤ネーム。色ネの中でも一番恐ろしい存在。同国人でも容赦なく襲う無差別海賊だと名前が赤くなる。が、あくまでプレイがそうであるというだけで、プレイヤー自身は白ネ同様フツーにDOLを楽しむ人間である事は忘れないようにしよう。 アゾスク あぞすく DOLでしか使わない特殊造語 アゾレス・スクールの略。アゾレス近海で海事クエスト「禁じられた海域」幽霊船10隻を相手に延々と白兵スキルあげの修行をすることをさす。幽霊船は船員が無限に回復するため、外科で回復させることによって長時間のスキルあげが可能になる。白兵スキルあげの人の他外科回復役が必要で、外科役は大量のお弁当と神農の神薬をつかう。 アパ あぱ アパルタメント。プレイヤーの家。改装を行う事で広くより豪華にしていく事ができるが、ランクによって爵位が条件となり、また資金と時間が必要になる。そもそもプレイヤーにとって家とは実際には船の事であり、アパルタメントは単に倉庫としてのみ機能しているケースが多い。というか倉庫。 アムス あむす ネーデルランドの本拠地・アムステルダムの事。 イスタンブール いすたんぶーる オスマントルコの本拠地・イスタンブールの事。地名は長いがあまり略される事はない。「イスタン」と呼んでいるプレイヤーもいるかもしれないが、そもそもオスマンプレイヤー以外は滅多に用事がなく立寄らないため、その名前を聞く機会自体がない。 イスパ いすぱ イスパニアの事。 一等 いっとう 一等戦列艦の事。 委任航海 いにんこうかい 回航許可証を使うことにより、発見済みの港から港、または上陸地点まで自動で航海できる便利な機能。初めのうちは出航所で購入できる回航許可証が1日たった3枚だったときもあったが、多くのプレイヤーの要望により1日の購入枚数は10枚(@web加入者は20枚)と大幅に改善された。ただし期限付きクエスト、大海戦クエストを受けた場合は委任航海は使えない。また無法海域への委任航海もできない。NPC海賊がうるさい海域でも強襲されることはないが、PKに襲われる可能性はあるので注意したい。自動で航海するため寝落ちプライヤーが急増したw 色ネ いろね 色ネーム。大抵はPK行為によって名前に色がついたプレイヤーを指す。が、色ネの中には亡命の結果色がついてしまった無害なプレイヤーもいるので注意。 イング いんぐ イングランドの事。 wiki うぃき 一口にwikiと言っても色々あるが、単に「wiki」と言う場合は大抵「大航海時代オンラインまとめwiki」を指す。 ヴェネ ヴぇね 国家としてのヴェネツィアの事。本拠地もヴェネツィアという地名であるためややこしいが、国の事を言っているのか街の事を言っているのかは文脈から察するより他にない。 ヴェネ ヴぇね 街としてのヴェネツィアの事。国名もヴェネツィアという地名であるためや(ryアドリア海は常に北西の風、つまりヴェネツィアからラグーザ方面に向けて緩い風が吹いているという来る者を徹底的に拒む仕様であるため、何も知らずヴェネツィアで始めてしまった初心者の心を多数へし折りDOLから去らせたと囁かれている。 AFK えーえふけー away from keybord SS えすえす スペシャルスキルの略。ロンドンから馬車で移動するとオックスフォードがあり、そこで大学にはいることができる。大学の論文提出→スキル習得→イベントと最初はかなり忙しい。スペシャルスキルは多岐にわたり細かく説明でないが、非常に有用なスキルが多い。 SS死 えすえすし 戦闘中、SS(スクリーンショット)撮影に気を取られて攻撃を受け、行動不能になる事。 N えぬ (1)ノーマルの略。「Nカロ(名匠品でない通常のカロネード砲)」「Nロワ(未強化のラ・ロワイヤル)」など(2)NPCの略。「N狩り(海事NPC狩り)」 (3)商会内用語。総合商社オールゼロおよびFlora・Hollandでのみ流通する私的通貨の単位。「NEZUMI(ネズミ)」の頭文字であり、1Nならネズミ1匹を表す。ネズミは副官によるネズミ退治もしくは調達によってのみ得られるなど入手経路が非常に限られるものの、ネズミを喜んで買う可哀想な交易所主人はDOLにはいないため売っても当然安く、使用用途もペットのエサにするくらいしかないゴミクズ交易品である。しかしながら、現役DOLプレイヤーに於いては唯一と思われるネズミ収集家・奇しくも同じ「N」のイニシャルを持つFlora・Hollandの副会長N氏がこれを珍重しているため、ネズミを入手した商会員は(半ば強制的に)N氏にネズミを進呈している。すでに相当な数のネズミがN氏の元にはあると思われるが、使用用途を問い合わせても「あつまったのをみて にやにやするんだよ」というちょっと何言ってるかわかんない返答しか返ってこないため、商会員の間では「ネズミーランドを建設し、その女王になる気では?」「敵対している国の首都に大量に放ってペストを発生させる生物兵器として使用するつもりだ」などの憶説も浮かんでいる。その価値基準について、筆者(匿名希望ヴェネツィア人L)がN氏に「N氏にとって1NとはDOL内の公的通貨に無理やり換算するとどれくらいの価値なのか?」と取材したところ、「1N=1mかな」という世界周航イベントを思い出さずにはいられない法外な回答を得た。ただしあくまでも無理やりドゥカートに換算するとというだけの話で、N氏も1Nに対し1mで買い取っているわけではない。わけではないが、少量でもN氏の気分によってはちょっとしたアイテムと交換してくれたりすることもあり、筆者の「400~500まとまった数をいっぺんに持って行ったらどうするのか?」という問いには「夜金(夜戦用金属製装材)とか大スト(大ストームセイル)(と交換)くらいかな」とも回答している。なお、N氏は集めたネズミをアパルタメントの倉庫で飼育している。大量のネズミはペストの発生源であるため、N氏邸に招かれた際には普段着で赴くのは自殺行為である。防護服と防護マスクを着用して訪問することを強く推奨する。 NPC えぬぴーしー Non Player s Characterの略。ゲームに登場するキャラクターのうち、プレイヤーが操作しない(できない)もの。 m えむ 西欧の命数法 Million。1mで100万を表す。10mなら1000万、100mなら1億である。頻繁に使用する単位なので覚えておかないと恥ずかしいかもしれない。ここではマゾの略ではないので注意が必要だ オールゼロ おーるぜろ 総合商社オールゼロ(アムステルダム8番商館)のこと。ボレアス鯖実装開始すぐに設立された老舗商会で、他鯖から新天地をもとめてきた航海者達により結成された。次々と移住してくる人で常に会員数は50で、サブ商会「零の領域」も設立された。現在のネーデルラント大国の礎は、これらのフロンティアーズがつくったといってよい。反イスパニア・ネデ保守が商会のカラーであるが、新人育成はうまい。数多くの名物キャラを輩出。「日光江戸村」会長のニャンまげさんもここの出身である。アーゴット姉妹の長女リサが副会長に就任後、Flora・Hollandと両方に在籍するキャラが急増した。最近はベテランが抜けて、新たな人材を常にもとめている。商会開拓街 ヌーベルフランス 施設 工廠、サロン、大学、書庫6 オスマン おすまん オスマントルコの事。 「オス」「♂」と表記することも。 おばちゃん おばちゃん (1)年長の女性(2)アフリカ南部ケープの街の酒場娘・アリデスの事。酒場娘とは言いながら、紛うこと無きおばちゃんである。本人も、自らを「おばちゃん」と言っている。世界各地の酒場娘あるいは酒場男が様々なキャラでプレイヤーに媚を売ってくるのに対し、飾らず等身大でややお節介なアリデスのキャラに癒されるというプレイヤーもチラホラいる。マニアックなのか心が倦み疲れているのか判断の分かれるところだが、他人の嗜好にとやかく言ってはならない。ちなみに筆者はアリデスおばちゃんのファンであり、南蛮帰りにはかかさずケープに寄港するようにしている。 お守り おまもり (1)平たく小さい袋型の縁起物。守札(2)消費アイテム。「雷獣のお守り」「炎神のお守り」など。様々な種類があり、使用すると1時間の間、獲得経験値や名声、スキル熟練度などが上昇する。上昇値は種類によって異なる。非売品のため、イベントや航海者功労特典などでしか手に入らない。当然、プレイヤー間の売買も高値での取引となっている。 ○○オンライン ~おんらいん ある目的のために、同じ作業を繰り返す事。生産系スキルの修行の際によく使用される。「レースオンライン(縫製:レースを織り続ける)」「ダウオンライン(造船:ダウを造船し続ける)」など。スキル上げのためには単調な生産作業を延々繰り返さなければならず、また修行が終了した際に湧き上がる感情も、達成感・解放感・虚無感など様々なようである。修行の過程で悟りを開くプレイヤーもいる事が確認されている。類義語に「○○マラソン」。